にこにこくんの、のんびり日記

おもに演劇や映画の観劇レポや、作った料理などを掲載します。

カテゴリ: 映画

しばらく前になりますが、アップリンク吉祥寺で映画「愛がなんだ」を観ました。

NHKの連続テレビ小説「まんぷく」で、主人公・福子(安藤サクラ)の妹役を演じ、一躍人気者になった岸井ゆきのさんの主演作です。どことなくだらしない男・マモル(成田凌)に一方的に恋をして、一方的に尽くすテルコを演じます。

「愛がなんだ」は、人気小説家・角田光代さんの小説のタイトル。この本が原作になっているわけですが、一方的に愛を尽くす主人公の物語なのに、なぜ「愛がなんだ」と愛を吐き捨てるようなタイトルなのでしょう。愛とは相手を思いやる気持ちで、相手が望まないことを押し付けようとはしないものです。無償の愛だからといって、タダだからと出血大サービスをして良いものではありません。しかしテルコは、「愛がなんだ」と、自分のやりたいように、相手が嫌がろうとも、平気で相手に尽くすのです。相手のための「愛」ではなく、自分がこうしたいという「欲」を優先するのです。

テルコのような女性はなかなかいないな、と思いましたが、よく考えると、世の中の「オカン」には、そういうタイプが結構いるような気がします。そうか、テルコはオカン体質なのか?

一方のマモルも、そんなテルコを振り切って、別の女性・すみれ(江口のりこ)に恋をします。彼女は相手に愛を求めず、自立した生き方を目指しています。だから、マモルにも愛を求めません。ゆえに、無理目の恋になってしまいます。

「献身的な愛」という言葉はあるけれど、「献身的な欲」という言葉はありません。そんなテルコの欲は、報われることはあるのでしょうか。それとも、欲から愛に、形を変える時は来るのでしょうか。

片思い中だったり、恋愛関係がうまくいかなかったりしている人にとっては、共感して胸が痛む作品かもしれません。スッキリした出口を示してくれるような映画ではないけれど、監督・脚本の今泉力哉の優しさも親切さもない人間愛が、得も言われぬおもしろみを味あわせてくれる作品でした。

愛がなんだ
 

先日、映画「ワイルドライフ」を観ました。監督のポール・ダノは演技派の俳優として知られ、この映画で初めてメガホンを握りました。

イメージ 1

舞台は1960年代の米国。古き良きアメリカの理想的な中流階級として、家族三人が仲むつまじく生きていたのですが、夫の失業をきっかけに、次第に彼らはバラバラになっていきます。何とか絆を取り戻したいと願っている息子の視点で、彼らのもがく姿が描かれていきます。

夫であり、父である前に、彼はジュリーという名の一人の男。
妻であり、母である前に、彼女はジャネットという名の一人の女。
息子である前に、彼はジョーという名の一人の少年。
一人の人間が複数の輪を抱え、その輪が重なるところに自分があり、その重なりがさらに重なるところに家族があるのです。

「こうあるべき」という理想的な憧れの、ステレオタイプなライフスタイルから外れてしまうこと。妻はそれを最も恐れていました。そして、その恐れが夫の失業をきっかけに現実のものとなったとき、彼女は家族が生き抜くために、なりふり構わぬバイタリティを発揮します。しかしそれがやがて、家族崩壊へと導いてしまうのです。

失業をきっかけに自分の弱さや迷いにさいなまれ、問題先送りともいえる選択をする父。
家族のためなのか自分のためなのかがわからないまま、生きるためにもがく母。
それを静かに見守る息子は、心の優しさゆえ、幼さゆえに、問題の修復を担うことはできません。

そんな息子が家族のためにとった行動、それは確実に、両親に届いたはず。果たして、この家族の未来は……。

舞台はカナダに近いモンタナ州の田舎町。何もない町と、町の周りを覆い尽くす森林。その森は大火事に見舞われ、消防団もなすすべなく、雪の季節になって自然鎮火するのを待っている状態。

そんな何もない風景の中で演じられる家族の姿が、どことなく寓話のように見えてしまいます。

次第に壊れていき、なすすべのない家族と、消えることのない山火事に、なすすべのない田舎町。この二つがシンクロしているように見えるのです。

元に戻すことはできなくてもいい。元に戻すことだけが解決ではない。変わりゆく家族模様のなかで、一筋の希望を感じます。それは……。

ほろ苦くも余韻のある、味わい深い作品でした。

じゃーねー!(*^▽^*)/

今年5月のゴールデン・ウィークの頃ですが、シネスイッチ銀座でジャン=リュック・ゴダール監督の最新作「イメージの本」を観ました。

イメージ 1

簡潔に言うと、彼の新たなオリジナル映像に、さまざまな絵画・映画・文章・音楽をコラージュした映像詩です。

この作品は、表面的には現代社会に対する批判的なメッセージのようですが、そのメッセージ自体を脱構築しているようにも見えます。

また、あまりに過剰なコラージュは、観ている者を幻惑し、トランス状態に陥り、めまい、または眠りへといざないかねません。しかし、意識が遠のいたかと思うと、今度は覚醒し、映像が記憶の奥底にまで刷り込まれます。

つまり、この小間切れのパッチワーク作品は、「理路整然とした主張より、不確かなパラフレーズ(言葉の散乱)」「きちんと正対して意識を覚醒させて観るより、意識と無意識を自由に横断させながら接する」「理解よりも、感じる」といった方向で作られた映画なのではないかと思えました。

ひたすら美しく、現代史の早送りを観ているような感覚にさせる、刺激的な84分間の作品でした。

「イメージの本」公式サイト

じゃーねー!(*^▽^*)/

昨日、池袋の名画座「新文芸坐」で、「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」を観ました。

イメージ 1

志乃ちゃんは吃音に苦しみ、内向的になっている高校一年生。海の近くのへんぴな田舎町で暮らしており、近くに専門医がいるわけでもなく、担任の先生も「リラックスすればしゃべれる」などと不勉強な対応しかできません。ルーズソックスが流行っていたり、誰も携帯電話を持っていない時代。そんな情報量の少ない時代に、志乃ちゃんは高度な医療を受ける機会もなく、もがきながら生きています。

なお、劇中に「吃音」や「どもり」という言葉は一切出てきません。それは、原作者の漫画家・押見修造さんが、

ただの「吃音漫画」にしたくなかったからです。とても個人的でありながら、誰にでも当てはまる物語になればいいな、と思って描きました。

と書いておられ、映画化にあたってはその思いを尊重したからです。

人前で話すのが怖くて内向的になっていた志乃ちゃん。クラスメイトの加代ちゃんとひょんなことから仲良くなります。歌が好きでロッキングオンを買っていて、ギターが弾けて、だけど極端に音痴の加代ちゃん。彼女は、志乃ちゃんが歌だと吃らずに歌えることを見つけ、志乃ちゃんは自分が歌えることに気づきます。そこから文化祭での発表を目指し、二人の楽しい夏休みが始まります。

やがて、好きな仲間と一緒にいること、自分を変えようと努力すること、人と関わることで環境・状況が変わっていくことが、自分一人の殻に閉じこもっているよりも苦しいということに気づく志乃ちゃん。加代ちゃんとの約束の文化祭まであとわずか。果たして彼女は、どこに向かっていくのでしょう。そこにたどり着くことはできるのでしょうか。

劇中は、オリジナル曲や「あの素晴しい愛をもう一度」「翼をください」「青空」など、いろんな曲で彩られます。音楽が、人と人をつなぐ糸電話であるがゆえ、「自分だけのもの」が「みんなのもの」になっていく喜びと辛さ。それが、人生を、青春を彩るドラマになります。

画面全体から愛が伝わってくる映画でした。

じゃーねー!(*^▽^*)/

初代ゴジラが東京を破壊するシーンに、公開当時、戦争時の空襲、とくに東京大空襲が記憶に残っている人々は恐怖したといいます。また、ゴジラの誕生には南洋の環礁での水爆実験が影響しているという仮説が、登場する博士によって唱えられます。初代ゴジラは戦争の記憶の産物ともいえます。

私が初代ゴジラを最初に観たのは50年近く前、小学校低学年でした。熊本市内の映画館でした。1954年の封切り時ではなく、1968~9年ごろのリバイバル上映です。そのとき私が映画から受けたものは、カタルシスでも恐怖でもなく、「訴え」でした。ゴジラが私たちに訴えかけているように見えたのです。衝撃でした。

私は戦争を知らない世代ですが、当時の熊本は、水俣病を公害病として認めよと、患者たちが国に訴えていた最中でした。熊本では他県よりも水俣病に対するニュースを多く報じていました。数年後他県に引っ越した時、水俣病に対する扱いの小ささに驚いたものです。

ゴジラと水俣病は関係ありませんが(ゴジラの封切りは1954年、水俣病の公式発見は1956年)、子どもの頃の私には、患者たちが怒りと悲しみを込めて訴える姿と、東京で暴れるゴジラの姿が重なって見えました。ゴジラが海から現れることも、どこか関係しているかもしれません。水俣病は工場排水から生まれるメチル水銀化合物による海洋汚染が原因ですから。

そんなことを、ふと思い出しました。

じゃーねー!(*^▽^*)/

↑このページのトップヘ